会社紹介

 ご挨拶

マルトという社名は、明治時代の創業者中田徳蔵氏が㋣の商標を使って鮎バリを販売していた事から由来します。先代が引継いだ際も登録商標として使っておりましたが、当初、登録しておりました指定商品は、旧8類利器及尖刃器で昭和13年5月21日出願、同14年4月24日登録されたものでした。しかし、商標権存続を委託しておりました弁理士が亡くなる等し、弊社も更新手続きを失念した結果、昭和34年4月24日に消滅しました。その時期は、商標の指定商品の変更もあった時期であったことで、同業他社が同じような形状で取得した結果、登録商標として再登録できず㋣を使用することが出来なくなったのです。
弊社が特許に無知で、しっかりと管理していなかった事は紛れも無い事実で、創業者が残してくれた大切な財産を失った事、又、このことによりご迷惑をお掛けした方々に深くお詫び申し上げます。
最後に、釣りを活性化するためには、業界も釣り人も誇りを持った紳士であらねば、時代の流れに淘汰される恐れがあります。ダムを造っても補償でアユを放流すれば大丈夫と安易な発想をした組合も河川環境の悪化で組合の運営が泥沼の状況に入っています。
他社のヒット商品を真似ても「良い品だから真似てどこがわるいの」と平気でいうメーカー。この言葉、中国に於ける物まね商品を作る会社と同じ倫理感ということです。
企業努力で勝ち得た売上は、賞賛に値しますが、・・・・・・・・。釣り人も、数釣りに走ると根絶やしとなります。入れ掛り等で釣れていれば中々止まらないのも判ります。しかし、サイズ無視の数釣りだけは、控えて頂きたいと思います。
海外では、サイズと数量が規定され、釣り人もそれを守ることが誇りと思っております。日本の釣師もマナーを守る誇りと自覚をより一層持って頂ければ、釣り場の環境も良くなり、多くの釣り人が楽しめ、子供たちにも釣りの楽しさを伝えていく事が出来ると思います。ご協力の程宜しくお願い申し上げます。                                         

平成20年4月1日
代表取締役 太田 博文

 

明治16年
明治30年

 

 沿革

明治
9年12月 本家中田和一郎(兄)より分家し広島県安芸国沼田郡楠木村柳河内(現在の三篠町一丁目)にて中田徳蔵商店とし個人にて創業する
16年5月21日 第一回水産博覧会に於いて受賞
23年7月11日 第三回内国勧業博覧会に於いて受賞
30年11月12日 第二回水産博覧会に於いて受賞
33年10月22日 中田政一代表者となる
37年3月 中田軍蔵氏二代目中田徳蔵を襲名し代表者となる
40年 輸出手縫い針製造を始め工場を拡張する
大正
5年3月 合資会社中田徳蔵商店設立代表取締役に中田徳蔵就任資本金2,000円
昭和
14年8月 火災にて工場全焼し三篠本町二丁目に移転する
20年8月 原爆により工場を全焼し佐伯郡五日市町海老塩浜に移転、戦後早々に手縫い針釣針製造を始める
27年12月 (合)中田徳蔵商店より釣針部門を分離して、有限会社中徳商店を設立代表取締役太田 博資本金60万円となる
32年6月 有限会社太田製缶所を合併資本金110万円となる
52年9月 資本金600万に増資する
54年2月 資本金800万に増資する
55年2月 資本金1,000万に増資する
61年8月 有限会社マルトに社名変更し食品製造販売部を新設
61年12月 株式会社マルトに組織変更する
平成
元年12月 東京晴海にて東京国際フイッシングショウに出展
2年2月 千葉幕張にて東京国際フイッシングショウに出展。
3年2月 千葉幕張にて東京国際フイッシングショウに出展
4年2月 千葉幕張にて東京国際フイッシングショウに出展
5年2月 千葉幕張にて東京国際フイッシングショウに出展
6年2月 千葉幕張にて東京国際フイッシングショウに出展
7年2月 千葉幕張にて東京国際フイッシングショウに出展
8年2月 インテックス大阪にてフイッシングショウOSAKA出展
9年2月 千葉幕張にて国際つり博に出展
10年1月 東京国際展示場(東京ビッグサイト)にて国際つり博に出展
10年2月 代表取締役に 太田 博文 就任
10年7月 食品製造販売部を分離し、釣バリ部門を強化する
11年2月 東京国際展示場(東京ビッグサイト)にて国際つり博に出展
12年2月 ポートメッセなごやにて第1回なごやフィッシングフェスティバルに出
13年7月 NHK文化セミナー鮎講座で講義
14年7月 富山新聞主催の庄川鮎祭りで鮎釣りの講演と仕掛講座を開催
18年12月 創業130周年表彰を広島商工会議所より受ける